
推し事をしていて必ずと言って良いほど直面するのが
オタク同士の人間関係
わたしはとても閉鎖的な性格で
他人と一緒に同じ人間を継続的に愛でるという行為が苦手だ。(言語化すると気色が悪すぎる)
そもそもオタクが推しに対する温度感は
日々変化しており
常に同じ熱量で推すことは不可能だと思っている。
そんな中で日々更新される推しの情報に一喜一憂し、その都度、喜怒哀楽を共有しようものならどこかで摩擦が生じるのも致し方ない。
私『…今のあの発言ってあの過去の経験があったからこそ生み出されたもので…
視線の送り方から察するにおそらく誰々に向けた言葉だろうとも捉えられるし…
何よりふいに出た言葉だからこそ、まさに推しの生き様を象徴するような名言だったよね…』
オタ友『考えすぎわろた、そこまで考えて発言してないでしょ』
え?!?!?!
いまから鼻息のぶつかり稽古でもしようじゃないかと意気込んでいたのに…
1聞いたら100妄想するからオタクって楽しいんじゃないの???
同じオタクだから一緒の気持ちを共有できるはず
という無意識の期待がよりわたしを落胆させ、勝手に裏切られた気持ちにさせられる。
ということで
いつからか無理に「オタクという名の社会」に自ら身を投じることをやめた。
自分 対 推し
この世界線で1人で勝手にむふむふしてるのが一番だという結論に落ち着いたのだ。
そして、
自分で勝手に創り上げてきた「推し像」は
自己満足以外の何物でもないため
共有不要にした。
いかにも短絡的な考えではあるが
これがわたしの性に合った推し方なのだ。
「オタ活はあくまで逃避」
現実世界と切り離した異世界の中に
精神をうずめる手段として利用することを
わたしの人生の美徳とした。
わたし と 偶像
この関係性だけで十分。
いや、これ以外必要ないのかもしれない。
そして、自分の推し像(こうして欲しい、こういう言葉が欲しい、こういう価値観を持っている人であって欲しい等)と
実際の推しが発した言動がまさに一致したとき
それはまるで砂漠のオアシスのごとくわたしの心に染み渡り、五臓六腑を癒すのである。
この瞬間の連続こそがわたしの精神世界
そして思う。
「あぁ、明日もまた頑張って生きよう」
さて今日も
電波を通じて提供された推しを
自分の価値観という色眼鏡で選別し
心を満たす情報だけを自分の精神世界に招き入れるとしよう。